マスターキートンと版権

たまたま、マスターキートンが久しぶりに読みたくなったのだが、今は絶版らしい。
偶然探してたら見つかったのだがここを見て思うこと


作:○○/画:××
という形式は漫画ではよく見る。
「さいとうプロ」みたいなのは例外だろう、と思ってたらそこにも話が絡んでて面白い。
単純に推理モノとしては楽しい。



原作者−編集者−漫画家
という構図は興味深い。というのは
設計者(原作者)と実装者(漫画家)の間を取り持つ編集者の存在である。
原作者も、漫画家も単体で切り売りできるわけではなく、
編集者の作る「誌面」というプラットフォームに載せないことには
リリースすることが出来ない、リリースできないと漫画家も原作者も収入が入らない。
つまり、編集者の権限が強い部分がある。
さらに興味深いのは、
・途中から原作者が原作を書かせてもらえない場合がある、
 勝手に漫画家と編集者が話を進める場合がある
 これをある程度容認している原作者も一部いる
というところにある。
IT屋に置き換えてみると、こういうことになるのか。
・途中から設計者が設計させてもらえなくなる。
 勝手に実装者(と謎の仲介者)が設計を替えてしまう
 これをある程度容認している設計者も一部いる
と、なるか。まぁ、後者が事実かどうかは判断しない。


最終的に読者が触れるのは漫画の場合は『漫画家の書いた絵』のインパクトが
強いので、『誰かが考えたセリフやストーリー』は読者からは見えづらい。
なので、最終実装者たる、漫画家が(あるいは編集者と組んで)勝手にストーリーを
展開した場合、読者からは『誰が組み立てた話であろうがこの漫画家の絵だから』
という理由でそれほど、追求はされない。
(少数精鋭でなぁなぁで動いてるからトレーサビリティの無い世界なのだろうな)


さて、これを置き換えると
最終的に利用者が触れるのは『実装者の作ったプログラム(UI)』のインパクトが
強いので、『その背後にいる設計者の意図』は利用者からは見えづらい。
(まぁ、ここに文句のある人もいるだろうが、そういうこともあるかも、と考えて)
なので、最終実装者たるプログラマーが勝手にプログラムの動きを変更した場合
利用者からは『誰が設計したにしろ、このUIの作者のプログラムだから』
という理由で追求はされない


ということが起こりうるだろうか?
前者と後者では関係する目玉の数が違うか否かというのがポイントか。
充分に目玉の数が多ければ、、全ての問題はナントカという感じで片付けられる気がする。
が、技術的な話題に入り込める人が数人しかおらず、実は使える目が数個でした、
なんていうのはありそうな話だと思うのだが?


良いか悪いか、は別として、UMLみたいな『直接動くものが作れない言語』で
設計を残す、という行為そのものを考えてしまう。
そして、その残してある設計を使いまわしたい、とした場合、
(残す、というのは要求のトレーサビリティの確保以外にも再利用性を高める目的もあるはずだ)
その先にあるのは、こういった権利ビジネスのゴチャゴチャとした利権争いなのか、と危惧してしまう。
「その設計での実装は我が社に納入した××システムのみが使用し、他への使用は禁ずる」
とか。ありそうじゃないですか?


となると、設計者は特定のシステムに囚われないメタな設計をいつの日か手を出さざるを
得なくなるのだろうか?
たとえば、漫画の世界ではこういうことが実際に起きている。
登場人物の名前やプロフィールを書き換えただけの似たようなストーリー、
(例えば、マスターキートンイリヤッド、など)というのはそれほど問題視はされていない。
特に週間少年マガジンなんか、は殆どのフォーマットは使いまわしだよね?
ある連載が終了しても、同じ作者が登場人物と背景を替えて同じような話を連載開始したり、、
(そういう自己模倣はどこの世界でもあるんだろうけど、あだち充とかもそうだ)
読者の立場から言わせてもらうと、登場人物が変わっても似たような話が読める安心感があって
それはそれで嬉しいんだけれど。


というわけで寄り道ばっかりしたけれど、
「設計工程の成果物」と「実装工程の成果物」の権利の取り扱いは分けて考える必要があるのでは?
というのが今の自分の考え方だ。
自分自身は設計屋と実装屋を行ったり来たり、で、時には設計したものの実装する人がいないから仕方なく自分が実装するとか
自分の足元を見ると、考え方とは随分違った現実があるんだけどね。。


いがらしゆみことか、森進一とか。
近い将来ああいう騒動が開発の現場でも起こりうる可能性もあるんだろうか、
だから全部クリエイティブコモンズにしろー、とは言いたくないけれど、
選択肢として考えることもあるのかもしれない。