科学的ということ

よく学生の頃に指導教授に言われたもんだが
「事実と思いは分けろ」
「事実とは測定、観測され(観測者とは思いを別にした)第三者の手によって再現ができるもの」
「思いが先行して都合のいい第三者の意見をつまみ食いするのは『正しい』とは言えない」
そして、これは指導教授の言葉ではないがある哲学の時間で
「科学とは、疑い抜いて最後に残った事象を事実と扱う、疑い抜くこと、それが、cogito(我思う、故に我ありの「思う」)だ」
また、あるノーベル物理学賞受賞者は科学を評してこういった
「科学とは肯定のための否定の連続である」
こういう否定から入り、安易な決めつけを行わないというのは、科学を通して得られた事実を扱う上での作法みたいなもんで、作法を知らずに出てきた事実を触るのは、やはり、問題がある。
えん罪の原因が、未熟なDNA鑑定に原因があった、という報道を見て、そこに疑いの目で見れる人間はいないのか、と改めて日本の刑事裁判の怖さを思い知った気がする。
とはいえ、裁判官自身が出てきた鑑定結果が事実なのか確かめたいから実際にDNA検査をしてみる、というのは無理なのだから「鑑定」をするものの責任は重いんだろうな。