プロ野球伝説の名将―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫) [文庫]

鶴岡一人川上哲治西本幸雄、稲生和久の4名の日経新聞最終面の連載をまとめたもの。
鶴岡、川上、西本の3名は戦争を挟んでおり、この人たちの人生に大きく影響を及ぼしていることがよくわかる。
鶴岡カントクについては、野村監督の南海時代のエピソードでしか伺い知ることができず、そのパーソナリティを掴むことが今日では難しくなっている。そのことを考えると、本書は非常に貴重な情報なのではないかと思う。
野村監督が言うほど、悪い印象は受けない。むしろ、「青年」野村の成長を認め、その才能を見いだした名伯楽で、長嶋、別所など巨人に戦力を引き抜かれた後も「やり返すのではなく、うちは育てる、そのためにファームを作る」と答えたり、「将来は南海のゼネラルマネージャーをやってみたかった」など、昭和59年の記事とは思えない、10年以上先を見越したような文章が出て驚く。「セ・パ両リーグの観客動員の差をなくす手も打たねばなるまい」など球界全体が視野に入った発言が特に目を引く。

「指導者になると部下全員が味方だと思ってはいけない。必ず敵がいる。敵がいないと指導者としての勉強をしなくなる。しかし、半分味方で半分敵と言うのでは、指導者としてゼロ。味方六、敵四で普通、七対三で立派な指導者と言えるのではないか」
思えば、私の二十三年間の監督生活は、五対五を六対四に、さらに七対三にするためのの努力の日々だった。
チーム内には、あまり出場の機会に恵まれない「ボヤキ組」が必ずいた。遠視の列車の四人がけのシートにその連中はかたまった。(中略)このグループが大きくならないように、常に注意しなければならなかった。

大監督は言うことが違う、それ以上に見えている世界が違いすぎる。


次は、川上監督。
子供の頃から成績優秀でこういう一節がでてくる

間もなく1年が終わろうとする二月に熊工を中退してしまった。
そして改めて済済黌の試験を受けた。私は熊工でも学力は優等だったので、受験にもなんなく合格し、四月に済々黌に入学した。

その後、済済黌をやめて、熊本工業に戻っている。プロ入りするときは

プロ野球に行けば(中略)今すぐ三百円の支度金ももらえる。これで土地を買い、家を修理することもできる。それにプロでやるのも兵隊に行くまでの間だから

そして監督になってはこうだ。

私は背番号にそれほど愛着は無い。「16」番にしても、欠番にしていただいたが、それほどの感激は無かった。

自信家というより、それを支えるだけの努力と実績がこの人を「信念の人」にしており、やはりこの人も視野が広い。結びの文も自信過剰気味にこうだ。

私から見れば、日本のプロ野球は、私の思っていたような姿になってきている。だからユニホームを脱いでも、今はなにも心残りは無い。

川上哲治という、肥後もっこすと信念の固まりが服を着たような男で、実はこの本を読んで好感をもった。生前もっとこの人のインタビューとか聞いてれば良かったと思った。


さて、西本幸雄監督。
やはり、この人も成績優秀であった。が、海草中の嶋投手と対戦した話など、伝説の人だと言うのは知っていたが、もっとスゴい伝説の持ち主だったようだ。
初めて監督をやった時は、永田雅一の「三原、水原、鶴岡の三氏に声をかけたが、全部断られた。和田代表らの説得で、私の監督就任を渋々ながら承知した。
こうして、プロの監督人生が始まる。実際にはノンプロ時代に既に監督から選手生活が始まっている。つまり、現役時代が、えらい薄い。それよりも戦争の話の方が色濃い。さて、渋々始まった大毎監督は、リーグ優勝後、日本シリーズスクイズ失敗の後

大洋にストレート負けした昭和三十五年の日本シリーズは、私の人生を大きく変えた。私は永田雅一オーナーに「馬鹿野郎」と言われて、一シーズン限りで監督の座から降りた。

である。ちなみに永田オーナーはさきほどの児玉誉士夫の本にも出てくる。この時代は忙しく政界工作に動いていたようで、国会議員を連れて球場に来ていたらしい。プロ野球が政界工作の場として機能していた時代があった訳で、この辺は興味深い。さて、西本監督はこの試合を振り返って

あのスクイズが成功して、もし下馬評通りに大毎が勝っていたら、どうなっていたか。その年の暮れ、毎日新聞が手を引いて、球団は永田オーナーだけのものになった。
日本一になっていたら、毎日も考えを変えていたのではなかったか。日本のプロ野球はジャーナリズムの支えがあって、それまでの流れを作ってきていた。あそこで毎日が手を引いたため、セ、パのバランスの問題など、プロ野球の姿が大きく変わった。だから、あのスクイズ失敗は、私の野球人生だけではなく、大げさに言うと日本のプロ野球までを変えたと思う。

大洋の優勝って、、いやはや、スゴいな。三原マジックはここまで食い込んでいたのか、と、驚く。ちなみにこの年、二位に終わった巨人の監督が水原から、川上監督に変わっている。では、もう一人のビッグネーム鶴岡一人は何をしていたかと言うと、永田オーナーと一緒にこの試合を見ていたらしい。そして、大毎は、低迷を続け、暗黒時代はロッテまで続いた。
まぁそして、江夏の21球でもスクイズ失敗を繰り返すのだが、最後には

勝負師ではない私がプロ野球の監督を二十年間も続けた。全く不思議な気がする。戦争があって、誰もが生きることに苦労した。私も一時的な生活の手段のつもりでこの世界に身を投じたのだった。

と振り返る。そこから先はモノにできなかった選手への懺悔が続く。川上哲治とは違った意味で信念の人だとわかる。そこには選手への深い愛情がある。最後の言葉だってそうだ。

新しく指導者となる人たちには、一番大事なものは野球に対する情熱だと言っておきたい。キザな言い方だが、選手、チームへの愛情が無ければ何もできない。愛情が深ければ深いほど、疑問がわき、技術の不足を感じるようになる。そしてこうすべきだという方法が必ず見いだせるのである。

日本一の記録があろうが、なかろうが、人を成長させることに必死になったこの人の生き方はやっぱり、好きだと思った。


さて、長くなった。稲尾和久については、もう、いいや。


戦争を経験した人は「組織」や「人間集団」への観察力が鋭く、人間関係の構築に戦争経験が色濃く反映されていることがよくわかる。
それは、児玉誉士夫であっても、名監督であっても同じだと思う。